演奏技術のレベル、音楽性と人間性は別物と考えないと人格否定の原因になるのではないか?
楽器の練習を毎日たくさんしているのになかなか思うように上達しないときというのは
自分も過去そうだったのですが
- 自分にはホルンの才能がないんだ。
- 失敗する自分はダメなやつなんだ。
- 何をやってもダメなんだ。
と自分を自己否定してしまいやすくなります。
本来ならば楽器の演奏技術が発達することと自分を肯定することは別なのですが
なぜか自分にとって大切な価値観であるからなのか失敗したり頑張って努力しているのに思うような結果が出ないときというのは自分自身の音楽性や演奏技術のレベルを人間性と結びつけてしまいがちなのだと思うのです。
【目次】
- 人間性が素晴らしければ音楽性も素晴らしいのか?
- 人間性がダメだから楽器が下手なわけでもないし人間性が素晴らしいから楽器が上手いわけでもない
- 音楽性と人間性は別物だと考えた方が人格否定がない
- 楽器の演奏レベル、音楽性と人間性を別物と考えないと相手の人格をも否定しやすくなるのでは?
- まとめ
人間性が素晴らしければ音楽性も素晴らしいのか?
これはよく言われていることなのですが
楽器が上手で音楽性が素晴らしい一流の音楽家は人間性も素晴らしいという意見をよく聞きます。
確かにその通りなんです。
自分も今まで色々な音楽家の方と知り合ってきましたがみなさん優しい人ばかりでした。
じゃあ人間性を磨いていけば楽器演奏が一流のプロ並みになるのかというとそういうわけではないし素晴らしい音楽を奏でられる感性が養われるのかというとそういうわけでもないと思うのです。
( 人間性を無視しろという話ではありません。やはり音楽は一人ではできないことばかりですから自分の周りの人間関係からお仕事を頂いたりアドバイスを頂いたりすることで自分自身が成長していける場合もあるからです。)
でもだからと言って楽器が下手な人が凄く周りから嫌われているかというとそういうわけではありませんし反対に楽器がめちゃくちゃ上手いけどアイツなんか嫌い!ていう場合もあると思います。
人間性がダメだから楽器が下手なわけでもないし人間性が素晴らしいから楽器が上手いわけでもない
このケースとして作曲家のフランツ・シュトラウスとワーグナの間柄が有名です。
シュトラウスはホルン奏者でもあるのですが当時ワーグナーと犬猿の仲だったらしいです。ですがシュトラウスが余りにもホルンが美味すぎてシュトラウスしかワーグナーが書いたジークフリートのホルンコールのソロを吹けなかったため嫌いでしょうがないんだけど仕方なく仕事を回していたという話もあります。
この話から分かるように人間性がダメだからといって楽器が下手なわけではありません。むしろ僕なんかは逆の印象があるくらいです。
音楽性と人間性は別物だと考えた方が人格否定がない
僕も過去楽器が思うように上達しなかったときや先生方から演奏について指摘をされたとき自分は何をやってもダメだと自己否定していました。
ですがそれはどこかで人間性と楽器の演奏レベル、音楽性を結びつけて考えていたため無意識に自分で自分の人格を否定していたからだったのです。
楽器の演奏レベル、音楽性と人間性を別物と考えないと相手の人格をも否定しやすくなるのでは?
どうやら世間では楽器のレッスンをするとき生徒が教えた通りに生徒が上手く吹かないと
- 物覚えが悪い。その調子じゃ才能ないから他の道に進んだ方がいい。
- そんなんじゃ社会に出ても通用しない。
- 教えていて疲れる。
こういった楽器の演奏技術に全く関係ない自己否定されているようなアドバイスしてしまうケースもあるようです。
僕もこういったことを言われたことが全く身に覚えがないというと嘘になってしまいます。
ですがこの問題の背景にはいい人間であれば楽器は上手くなる。
という思い込みが隠されているのだと思います。
こういった思い込みのことを過度の一般化バイアスと呼ぶそうです。
まとめ
僕が今まで苦しんできた自己否定の本質は自分の人格を自分で否定することでした。
ですがその背景にはいい人間になれば楽器も上手くなるという思い込みが潜んでいたのです。
参考にしてみてください。
それでは。