ホルン奏者かいとうゆうきの研究室

アレクサンダーテクニーク教師を目指し勉強中のホルン奏者かいとうゆうきがレッスンや練習、生活の中で自分で気付いたことをシェアしていきます

プロフィールその1 やりたいことをやるという自分の行動の原点

   垣内佑規(かいとうゆうき)

漢字だとかいとうって絶対読めません。

(会ってきた人みんな「かきうちさん?」

ってほぼ100パーセント間違えます。

かきうちじゃないです。かいとうです。)

 

 

 小学生

エレクトーンを小学1年生頃に習い始めるが続かず途中で断念。

その後ゲームにドはまりし、

朝起きてゲームご飯食べたらまたゲーム、そんな生活を続けた。

おかげでゲーム友達が沢山でき、みんなと外で遊んだり、ゲームしたり

(とにかく楽しかったなー)

「今日はあいつの家いってゲームしようぜ、あいつあのソフト持ってるからみんなでやろうよ」みたいな会話をしょっちゅうしてた。他にも父に連れられて魚釣りに出かけたりする。ゲームして友達と遊んでそんな楽しい毎日が続くと思っていました。

 

 でもそれは唐突に終わりを迎えました。

  

  

てんかん発症

 

小学4年生の頃自分の右足に違和感を覚える。

当初はしびれる程度だったものの、

ついに5年生の時プールでの授業中、右足に違和感を感じ

そのままプールで溺れ急死に一生を得る。

後両親から聞いた話(どうやら友達が自分が溺れているのを発見して先生に伝えてくれたらしい。プールで溺れた僕は先生に助けられ、気がつけば紙コップを口に当てられ応急処置をされそのまま救急車へ。)

 当初はただ足がつっただけだと判断され安静にしているように言われたのですが、

 ここからが本当の戦いでした。その後もなんども右足のしびれを感じ、

 父の里帰りで父と祖父とで魚釣りに出かけた際ついに車の中で倒れ意識不明になる。

この出来事がきっかけで自分がプールで溺れたのは足がつったからではなく

てんかんであったことが判明する。

 てんかんについて 詳しくはこちらまで↓

第1章 “てんかん”とはどのような病気ですか? | てんかん情報センター

 

 しかもてんかんを発症したとほぼ同時に上手く階段を下りられなくなる。

 以降てんかんを治すため病院に通い詰める日々に。

 

 

 

 

 

幸いにも早くに自分に合った薬を処方してもらえたため

なんとか症状は治まってきたもののふとしたきっかけでまた右足のしびれがおこりなんどもなんども倒れた。

 

ついに静岡にある大きな病院で検査入院することに

 

 

 

 

 

小学生静岡編

静岡にある病院へ検査入院

そこでは主に当時の自分と年が近い子供たちが入院していた。

検査をするためだけじゃなく

本当に入院しているであろう人もいた。

 

てんかんは人によって症状が異なるようで

自分は右足がしびれる程度ですんだものの

なかにはいつ意識を失うか解らない人も。

本当にそこではみんな毎日自分がいつ倒れるかという恐怖と戦っていた。

 

自分が病棟で倒れた矢先に自分の後ろにいた人が頭と体をグルグルまわしながら、病室の壁に頭をぶつけ倒れる。

ベットで寝ていると同室にいる人がうめき声を上げる。

そんなことがそこでは日常茶飯事だった。

 

病室の僕の向かい側にいた人は頭にヘルメットを被り、病室のベットではなく檻に入れられて生活していた。

 正直なところ「自分はなんて恵まれているんだろう」とその時思った。

 

 人間いつ倒れるか、いつ死ぬか本当にわからないし、人生やりたいことやろうと小学生ながら感じたんだと思う。

(ちなみに今はてんかんはもうほとんど完治して、症状もなく、階段も下りられますので大丈夫です。)

 

 

 

 

 

 

中学生時代

 

最初はパソコン部に入部しようと思ったものの、吹奏楽部というのがあるのを知り

そのまま吹奏楽部へ

最初はトランペットになるが

中学2年の時に教えに来て下さったOBの方から「君は左利きだからホルンどう?」

と言われそのままホルンへ

ホルンパートの先輩に上手くおだてられ、ホルンにのめり込む。

部活の時間にシエナウインドオーケストラの「星条旗よ永遠なれ」

の演奏をビデオで見て、

「自分も聞いてくれる人を笑顔に出来る演奏がしたい」と感じ

プロを意識し始める。

 

 

 

高校時代

 

自分の高校の吹奏楽部は東海支部へ毎年出場するような常連校。

で自分ももちろん東海大会へ行けると思っていた。

 

ただ 現実はそう甘くはなく、その頃マーチングにも力を入れていた

ので一年生は、先輩方のお手伝いやトラックでの搬入

搬出の日々。

もちろんマーチングの練習も

おまけに定期演奏会もあるためそのための準備などもあり

ほとんど休みがない状態で

結局最初の定期演奏会は精神的に追い込まれ体調を崩し参加できず

その年の夏のコンクール自分は補欠止まりで終わった。

 

 

高校2年の頃

顧問の先生が替わり

状況が変わりはじめる。

 

 

続く